体の不自由と心の自由
生まれつきの脳性マヒで全面介助を受けながら自立しているMさんという男性のお話を聞いてきた。車椅子に乗ったまま、話す言葉も聞き取りにくかったけれど、それでも1時間ほどご自身の体験を話して下さった。障がいを克服しようと、わずか2歳の頃から厳しいリハビリを受け、4歳の時にはリハビリのため親元を離れ寮生活も余儀なくされた。そんなMさんは障がい者は不幸だと言われるけれど、果たしてそうなのだろうか?と投げかけた。確かに体は不自由で他人の手を借りなくては食事も車椅子の移動も何も一人ではすることができない。では不自由なことは不幸なのだろうか。不便なことは確かだ。だけど不自由だからと言って決して不幸なことはない。不幸はむしろその人の考え方が生み出すもので、同じ障がいを持って生まれたにしても、それをどう受け留めていくかで人生は変わっていくと話されていた。
いくつかの辛い手術を受け続けてきたが、車椅子に座ることはできるものの今も歩くことはできない。現実にその体でできる仕事は限られていて、たとえ働いたとしても収入はほんのわずか。でも自分の体の中で唯一自由になるものがあるということをMさんは忘れなかった。それは頭(心)だ。たとえ体は思うように動かなくても頭を使えば、無限大の創造力を膨らませ夢を見ることだってできるし、日本中、どこでも飛んでいくことができるのだ。
ある時、Mさんは知り合いから一つのビジネスを進められる。障がいを持った人でもチャンスをつかむことができるという。そして何度か説明を聞いて納得した上で、その仕事を始めることにした。と言っても注文するにも勉強会に出かけていくにも全てお母様の介助なしにはできなかったのだが。そして20数年後。彼の努力によって、今では想像の世界で出かけるのではなく、実際にいろいろな場所へ自由に旅をすることができるようになった。そしてお母様を旅行に招待したり、お世話になった方たちと年に数回好きな旅行にも行けるようになった。
Mさんは語る。今できることを一生懸命やることが将来につながっていくと。言い換えれば今起きていることは過去を生きてきた自分の結果に過ぎない。
変わらないものを嘆きこだわっていても仕方ない。動かない体を動くようにと願い続けても動けるようにはならないのだ。だけど誰もが生きている限り変えていけるものを持っている。それは未来だ。そして未来を変えることができるのも自分だけ。Mさんは自分の人生をリセットし、自分の歩みたい人生を歩もうと決めた。決めたからビジネスがスタートしたのだ。そのビジネスを通して彼は多くの人に出会い、自分の思い描いていた未来を手にすることができた。
心や体に障がいを持っている人やシングルマザーや高齢者などがこの社会で生きていくことはとても大変だ。その中で最も大変なの経済的自立だろう。離婚して子供たちを抱え、社会的マイノリティの中に身を置いた時、親元にいて何不自由ない娘時代を過ごしてきた私は、初めて違う景色を見た。それまで頭の中だけで思っていた生活の大変さが全て自分の肩にかかってくる重圧。そして守らなければならないものがあることの責任感。
今となってはそういう生活を経験できたことは自分にとってもよかったと思っているが(子供たちにはかなりの我慢を強いてしまったけれど)、実際には明日払う給食費をどうしよう?米びつの中のお米がなくなったら今度いつ買えるのだろう?とハラハラしていた時期もあったので、お金がないことの大変さは身に染みている。あの時、あと少しのお金を手にすることができたなら、もう少し違った生活をすることもできただろう。
Mさんが今、お母様や友達と旅行に行けるのも、ご自身の収入が確立されているからだ。お金が全てではもちろんないけれど、お金があることによって得られる豊かな時間というものも確実にあるのだと思う。しかし全うな仕事を真面目にしていくだけでは、正直なところ中々そういう次元に辿り着くことはできない。ましてこんな時代だ。甘い汁をまき散らして一儲けしようと企む罠もあちこちに潜んでいるから、何に出会い何を信じ選択していくのかということは生き方を決めていく上でとても重要なことだ。
Mさんがいいビジネスに出会えてよかった。それはきっとMさんの心が自由だったからこそ見つけられた天職なのだろう。そして今度はMさんが誰かの人生を幸せにしたいから、自由な心でそのビジネスを回りの人たちに伝えているという。そんなプラスの連鎖の中で仕事をしていくことができたなら・・・。一言一言をかみしめながら、ゆっくり話すMさんの言葉を聞きながら、そんなことを考えていた。
*写真は京都の大徳寺の襖絵。本文とは関係ありません。
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