神の宿る三輪山ご参拝~盤座(いわくら)~そして光明真言
次の日は大神神社のご神体である三輪山に登ってご参拝した。大神(おおみわ)神社は日本最古の神社でご祭神は大物主神。お酒の神さまでもある。本殿を持たず、しめ縄で作られた三ツ鳥居が結界となっており鳥居の向こうの三輪山をご神体として拝む。
三輪山は標高467mの円錐形の山で太古から神が宿る山として信仰を集めてきた。神仏習合の時代をさらに遡り、自然そのものを崇拝した原始信仰の名残が大神神社には今も残っている。入山にあたっては社務所で許可を得て、決められた時間内に帰ってこなければならない。山全体が聖域なので飲食や写真撮影も禁止。
太陽や木や山や川など自然界のあらゆるものに神が宿ると信じられていた古代からのアミニズム信仰が一番自分の感覚に近いと感じているせいか、私はこの大神神社にとても惹かれる。
その日の午前中は奈良県の北東部にある山添村に岩谷枡型を見に行った。観光ガイドにはほとんど紹介されていないが、神野山を中心に数々の巨石群が残っている神秘的な場所だ。
アミニズムを信仰する古代人たちは巨石にも神が宿ると信じていたので、祈りの場所、または一つのシンボルとして昔からあった巨石の周辺や、自分たちの集落に岩を積み上げ、容易には立ち入れない神聖な場所として敬ってきた。以来、そこは磐座(いわくら)と呼ばれ、神の降臨する場所として畏れ崇められてきた。
周囲を雑木林に囲まれた小高い山の中腹にある岩屋枡型は一枚岩が分裂してできたもの。16mもある巨岩に大日如来がうっすらと掘られており、ものすごい存在感だった。その下の岩窟には護摩壇が設置されており、かつて修行僧が籠ったと言われている。大日如来は空海が掘ったという説もあるそうだ。
初めて聞いた盤座という言葉の不思議な響きとあいまって、あまりにも自然のままの荒削りで神秘的な崇拝の方法が沖縄の御嶽によく似ているなと思った。そしてこの場所もまた空海と繋がっていたことに驚いた。
その後、大神神社のご神山の入口となる狭井神社へ。入山の受付は2時までだったので今回はなんとか駆け込みで間に合った。
社務所で申し込みをして「三輪山参拝証」の襷を首にかけ、入口の御幣(ごへい)で自らお祓いをしてから一礼し、しめ縄の下をくぐった。
歩き始めてすぐにこの場所の神秘的な空気に包まれた。自由に人が立ち入れないようにすることによって守られてきた聖域。一本一本の草や木から発せられる静かな鼓動が伝わってくるようだった。
途中、「三光の瀧」と呼ばれる場所で滝行ができるようになっていたので、少しだけ滝にあたった。信心深くない私は祝詞をあげることもできず、ただ手を合わせ、ほんの束の間、滝を全身に受けた。冷たく清らかな神の水が体の中をスーッと通り抜けていった。
その後、椎の木や樫の樹林、烏山椒の林などを通り、一時間以上かかってようやく山頂に到着。撮影ができない場所なので、山頂がどうなっているのか全くわからなかった。周囲を見渡せる景色が広がっているのかと期待もしていたのだが、山頂というのに、こんもりとした木に囲まれ、何かを見渡せるような場所はなかった。そしてそこにあったのはまたもや巨石が立ち並ぶ磐座だった。
午前中に見てきた磐座がここにもあったなんて・・・。でも山頂にたどり着いて、ようやく何度か来ていた大神神社に初めてご参拝できたようで嬉しかった。
私は参拝者の最後だったので、下り道では夕方の見回りのため登って来られた神主さんとずっと一緒に歩くことになり、いろいろお話させていただいた。やはり大神神社の神殿の形態は日本の中でもかなり珍しいようだ。
ご参拝の最後は檜原神社。大神神社の摂社の一つでご祭神は天照大神。大神神社と同じく三ツ鳥居があり、そこから二上山が見渡せる。美しい夕陽で有名な場所だ。ちょうどこの日は二上山の雄岳と雌岳の間に太陽が沈む日で、境内には三脚を持ってスタンバイしているカメラマンで溢れていた。
夕陽が落ち始めてから境内に着いたので、残念ながら一番いい瞬間のシャッターチャンスを逃してしまったけれど、三ツ鳥居の向こうに染まる美しい夕陽は感動的だった。
夜は「粟 ならまち店」で夕食。築130年の町屋で大和野菜がたっぷり食べられる店だ。以前、「清澄の里 粟」へ行ったけれど、奈良県産大和野菜の地産地消を基本に、緑の多い郊外でとてもゆっくり食事ができる素敵なお店だった。こちらは人が行き交うにぎやかな奈良町にあり、清澄の里同様、美しく調理されたカラフルな伝統野菜が少しずつ籠に盛られ、目を楽しませてくれた。
大好きな神社へご参拝し、美しい夕陽で一日の終わりを迎え、お腹が空いたら美味しい大和野菜のお食事。多分、どのガイドブックにも紹介されていない行程を辿った一日だったけれど、なんて贅沢で実り多い豊かな一日だったのだろう。私にはとても素敵な旅の一日だった。
最後の日の朝は西大寺の光明真言土砂加持大法会に行ってきた。西の大寺と呼ばれる西大寺で750年にわたって行われてきた伝統的な法会だ。
「オンアボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」
これは「帰命し奉る 空しからざる遍照尊よ 偉大なる印を有する尊よ 摩尼宝珠(智慧)と蓮華(慈悲)の光明(救済)を回らせたまえ フーム(菩提心を表す聖語)」という意味の光明真言で、真言宗ではもっとも重要視されている。これを唱えれば抜苦与楽(ぼっくよらく)、罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)、亡者往生(もうじゃおうじょう)の功徳があると言われている。
以前、古民家の満月瞑想会の時にも大橋住職から教えてもらったご真言だ。
真言律宗の総本山である西大寺では年に一度、三昼夜にわたってこのご真言を一日唱える法会が行われる。光明真言を休むことなく本堂で唱え続け、本尊前に置かれた土砂を加持(光明真言の力を加えて清める)していく。
この法会に合わせて、境内ではクラフトや屋台の出店などが集まりイベントが行われていた。あいにくの雨で人出は少なかったけれど、お寺の伝統的な行事に合わせて市民たちの手づくりのお祭りができるのは参拝者にとっても楽しみが増える。
私はご真言が唱えられている本堂に一人座って瞑想をした。ご真言の中で瞑想ができるなんて、ものすごく贅沢なことだ。何も知らず、たまたま通りかかった駅のチラシを見て思い立って行ってみたのだが、ここでもまた満月瞑想会の時に唱えたご真言に出会ってしまった。
今回の奈良の旅での最後の時間に、そんな場に偶然にも居合わせることができ、ここでもまたお引き合わせを感じている。
ここ数カ月の間、見えない糸でつながっている出会いや出来事が重なり、そのたびに心に静寂を持ち、心を調えよ・・・と言われているような気がする。そこから何が生まれるのだろう?これからどんな道が用意されているのだろう?何があっても自分の中の光を信じて歩いて行くしかない。
今回の奈良はそんなことを確認するための3日間だったのかもしれない。
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