March 30, 2013

野菜を信じるレシピ

私の尊敬する料理家船越康弘さんの新刊本が出た。
野菜を信じるレシピ」〜岡山の料理宿「わら」が贈る“口福”の自然食〜(学研パブリッシング)。
船越さんの本は私にとって特別な存在だ。「わらのごはん」は料理本の中でも一番好きな一冊。以前、岡山にある「百姓屋敷わら」で行われた2泊3日の船越さんのセミナーに参加したことがある。重ね煮のお食事もおいしかったけれど、船越さんの言葉が一言一言、心に響き感動して私はセミナーの間中、ずっと泣いていた。そして料理の仕事を選んで本当によかったと思った。その後、店にお招きして船越さんに講演もしていただいた。忘れられない思い出だ。
30年以上、料理に携わっている船越さんは食べものへの感謝の言葉をいつも口に出して伝えているそうだ。教えていただいたその言葉を私も筆で紙に書き、古民家の厨房にもビオンの厨房にも貼ってある。それを唱えることが今では私にとっても厨房での日課になっている。
「食べものを変えると人生が変わる」と船越さんは言う。確かにそうだと思う。料理人として大切なことはレシピを増やすことでも有名になることでもなく、自分の精神性を高めていくことだと思う。それは食べものに感謝し、自分の生き方を食べものを通して見つめていくことだ。だから自分が食べものとどう向き合うか、どう生きていくのか、いつも試される。
船越さんの考える自然食とは「地球環境にとっても自然で調和する食事」。それは頭で「いい」とか「悪い」とか理論的に考えるものではない。作る人、食べる人の気持ちが何よりも食べものに影響を与える。いつも感謝の気持ちを忘れないこと。それが健康と幸せへの近道なのだ。「わら」のモットーである「おいしく 楽しく ありがたく」は船越さんにならって私も風楽のモットーにさせていただいた。
今回の本は重ね煮のスープやサラダ、野菜で作るスィーツなど新しいレシピもたくさん載っているが、途中にある船越さんのコラムも面白い。読んでいるとセミナーの時に熱く語っていた船越さんの姿が浮かんでくる。そう・・・食べもの、家族、幸せ、生き方・・・船越さんの伝えていきたいものはずっと一貫して変わらないのだ。
私の本棚の料理本のコーナーに素敵な本がまた一冊増えた。大切なことを忘れそうになった時は何度もこの本を開いて確認しよう。そして謙虚に原点の姿勢に戻ってそこからやり直そう。
船越さんは「魂のための食べ物を生み出す料理を作りたい」と書いているけれど、私はまず「心と体が元気になるごはん」を作りたい。
大切な言葉を今日も唱えながら。
「天地(あめつち)のお恵みと、これを創られた方のご愛念を感謝して いただきます。
この食べ物が私たちの体の中に入って 自他共にお役にたちますように いただきます」

Img_1084


| | Comments (2) | TrackBack (0)

February 22, 2013

ヘッセ「シッダールタ」

高校生の頃、ヘッセが好きだった。「車輪の下」から始まり、「春の嵐」「湖畔のアトリエ」「知と愛」「郷愁」「デミアン」・・・次々にヘッセの世界に惹かれていった。大人になってからは晩年のエッセイをいくつか読んだくらいで、しばらく遠ざかっていた。今回、久しぶりにヘッセと再会し、その深い言葉に触れ、感動と共に静かな余韻に浸っている。
シッダールタ」(草思社)を初めて読んだ。最初、タイトルから仏陀の生涯の物語かと思った。でも同じ名前を持つ一人のインドの青年が真理(真我)を求めて彷徨い、一切を愛し受け容れ悟りの境地に至るまでの過程が描かれた物語だ。それはヘッセ自らの宗教体験の告白でもあり、その魂の成長とも重なり合うものだと思う。

ヘッセがこれを書いたのは1922年。第一次世界大戦に異を唱えていたヘッセはナチスから裏切り者とされ、国内では紙の割当も禁止されていたそうだ。苦悩の中、スイスに渡り執筆。精神を病む中、妻子と別れユングに出会ったとされる。
プロテスタントの宣教師の父に育てられ、思うように生きられなかったことから自殺も試みた。仕事も長く続かなかった。感受性が鋭かった故に生きづらさを内包していた。そんなヘッセが晩年、精神的な安定を求め、傾聴や東洋思想、瞑想の中に安らぎを見出そうとしたのは自然な流れなのだろう。

シッダールタは高貴なバラモンの子として成長するが、父の教えだけにとどまらず、より大変な苦行を強いる沙門に自ら入る。全てを捨て瞑想による心の安定をはかるが自我が捨てきれない。その後、仏陀とも出会うが、悟りを開いた時に心に起こったことを言葉や教えには決してできないのではないかと疑問を投げかけ、自分は別の道を歩こうとする。
やがて娼婦との暮らしに溺れ、お金儲けのためビジネスで頭角を表し、世俗的な生活へどっぷりと浸かる。しかしその後、また全てを捨てて川のほとりに辿り着く。
深く傾聴できる舟渡しの老人ヴァーステデーヴァと出会い、シッダールタは川のほとりで暮らしながら、目の前を流れる川に耳をすまして聴くようになる。ユングを彷彿させるかのようなこの成熟した老人ヴァーステデーヴァとヘッセの分身でもあるシッダールタとのやりとりが私はとても好きだ。
川は全てを受け容れ、ただただそこにある。過去への執着や未来への希望ではなく、時間を超越した「今」そのものとして・・・。

最後に幼なじみであり親友であり今は仏陀の弟子の高僧となったゴーヴィンダと川で再会する。ゴーヴィンダは高僧になってもまだ迷い続けている。そんな友に語りかけるシッダールタの言葉がまたとても素晴らしいのだ。

「目標を求めて追うあまり、あなたの目の前にある多くのものが見えない」
「知識を伝えることはできるけれど、叡智は伝えることができない。それを見いだすことはできるし、それを生きることはできる。それに支えられることはできる。それによって奇跡を行うことはできる。けれどそれを言葉にして人に教えることはできないのだ」
「あらゆる真理は、その正反対も同様に真理である」
「世界そのものは、私たちのまわりと私たちの心の中に存在するものは、決して一面的なものではない」
「時は実在しない。時間が実在しないとするならば現世と永遠、苦悩と歓喜、悪と善とのあいだにあるように見える隔たりもまた一つの迷いに過ぎないのだ」
「私にとって大事なことはただ一つ、それは世界を愛することができること、世界を軽蔑しないこと、世界と自分自身を憎まないこと、世界と自分、そしてあらゆる存在を、愛と感嘆と畏敬の心を持ってみることができることだ」

どの言葉もヘッセが葛藤しながら悟りの境地に近づき、自らつかみ取ったものなのだと思う。あまりにも深い言葉がそこに並んでいて、何度も何度も読み返してしまった。
文章は読みやすく平易な言葉で綴られているけれど、これは寓話の形をかりた一つの哲学書だと思う。真理とは何か、魂の求道とは何か、改めて考えさせられる素晴らしい本だなと思った。
Img_0763


| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 14, 2013

自選 谷川俊太郎詩集

昨日、東京で会った友達が帰りに神保町東京堂書店で「自選 谷川俊太郎詩集」(岩波文庫)を買ってプレゼントしてくれた。今年に入って出たばかりなのだが、人気があるのかすでに3刷目だ。
谷川俊太郎さんと言えば、60年数年にわたって詩を書き続けている日本で最も有名な詩人であると同時に、日本にはほとんどいない詩作で生計を立てているホンモノの?詩人だ。私も何冊か詩集を持っているし、好きな詩もいくつかある。
自選詩集は1968年以来で、すでに2千篇を越えた膨大な詩の中から、世間の評価とは関係なく、有名は詩だけに偏らないように自分の目線で詩を選び173篇を集めたという。
今日、午前中に林農園さんに地粉で作ったクッキーを持って行き、今後の打ち合わせをした。林さんは毎週土日に川村美術館の一角で有機野菜を売っているので、3月末からはクッキーも一緒に販売していただく予定だ。文庫本を持って歩いていたので帰りにカフェに立ち寄り、久しぶりに俊太郎さんの世界を堪能した。
言葉遊びの詩は黙読するより音読する方が面白い。教科書に何篇も詩が載っているけれど、子供の心をとらえて離さないリズム感ある言葉のマジック。いつまでも少年の心を持った多面的な人なのだろう。
だが少年の心とは裏はらに深い孤独も抱き合わせている人だ。詩の中には俊太郎さんの孤独と苦悩、愛を渇望する叫びのようなものも潜んでいる。
それがふっと孤独な読者に伝わった時、詩の言葉は真綿のような優しいベールに変身していく。言葉の持つ力。やはり私たちは言葉の世界の中で傷つきながらも、言葉によって癒され、言葉によって思考を育んでいく生き物なのだと思う。
詩の一部だけを切り取ることは作者の意図に反することかもしれませんが、その世界の一部をご紹介したいので、ほんの数行ですが作品を抜粋します。

「静けさはいくつものかすかな命の響き合うところから聞こえる
虻の羽音 遠くのせせらぎ 草の葉を小さく揺らす風・・・
いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくとも聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属していて
静けさはこの地球に根ざしている」(夕立の前)

「詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を
それは無意識とちがって明るく輝いている
夢ともちがってどんな解釈も受けつけない
言葉で書くしかないものだが詩は言葉そのものではない
それを言葉にしようとするのはさもしいと思うことがある
そんな時ぼくは黙って詩をやり過ごす
すると今度はなんだか損をしたような気がしてくる」(理想的な詩の初歩的な説明)

「目を覚ました娘が隣に座った青年にほほえみかえた
そのほほえみを支える物語をぼくは知らないが
口をつぐんでお互いの目の中をのぞきこむ時のあのやすらぎ
その一瞬のためにこそ人は語りつづけるのだとしたら
この今がぼくらの共に過ごした年月と釣り合っていることを
あなたも認めてくれるにちがいない
そのために費やされた言葉をすっかり忘れてしまったとしても
それらの言葉のもたらした感情は哀しみも喜びも怒りもひとつに
この束の間を永遠に変える力をもっている」(TGV a Marselle)

Img_0707


| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 20, 2012

聡明な女は料理がうまい?!

1976年に発行されベストセラーになった桐島洋子のエッセイ「聡明な女は料理がうまい」が36年ぶりに復刊した。当時、桐島洋子は39歳、私は16歳。高校生だった。タイトルに記憶はあるものの、エッセイストやテレビなどでも活躍している「翔んでる女」?(なんと懐かしい言葉!)に特に当時の私はほとんど関心がなかった。だから彼女の書いたものを雑誌の連載などでは読んでも、本として出版されたものを読んだことはなかった。
今回、生活クラブの本選びの会でこの本の復刊を知った。取り組みも決まったそうだ。自身の人生を「食卓を中心に回っているメリーゴーランド」みたいと例え、「好きな料理を思い浮かべるとその周りには必ず家族や恋人や友達がいて、それがさまざまな愛の記憶に繋がっていく」と語っている。
本当にそうだ。あの時に食べたアレが美味しかったなあと思い出すのは、いつだって誰かと食べたあの時の味。
この本が出版された当時、私は将来、料理の仕事につくなんて思ってもいなかった。でも生活クラブ千葉での仕事も含めると、かれこれ20年近く料理(調理)の仕事に携わってきたことになる。いつのまにか料理は単なる趣味を超えて、私の人生の中でかなりのウエィトをしめる存在になってしまった。そしてやればやるほど料理ってやっぱり愛なんだなと私も思う。
歯切れのいい文章。世界各国の料理のレシピが紹介されており、メニューを読んでいると、桐島家のパーティでのテーブルセッティングが目に浮かんでくるようだ。
自分らしく生きることがごく自然にできる人。人との向き合い方も恋も仕事も潔い。それは自分がこうありたいという明確なモノサシを持っているからだろう。好きだなあ、そういう女性って。
そしてより自由で有能な女になるためにまず必要なことは、自分の食べたいものを何でも作れる自由さを手に入れること。なぜかと問われたら、食べることは生きることそのものだからと私も答えるだろう。
自分の人生を自分で開拓してきた人だから、時に向かい風にも合ったことだろう。決して平穏な人生ではなかったはずだ。だけど体当たりで丸ごと生きたから後悔なしという清々しさが伝わってくる。それがなんとも心地よいのだ。
きっと桐島洋子の作る料理も彼女の人生のように大胆で常識にとらわれず自由なのだと思う。そしてスパイスが効いていて、何より味わい深いのだろうなと思う。
おもしろおかしく、一人の女性の人生論のようにも、料理のレシピ本のようにも読める肩のこらない楽しい一冊。復刻を機に改めて今の女性たち、いえいえ男性たちにもぜひオススメしたい一冊。

Img_0355


| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 29, 2012

自分を抱きしめてあげたい日に

東日本大震災、福島第一原発事故を境に私たちの生き方は大きく変わってしまった。そして今までとは違う暮らし方や考え方を誰もが模索していると言っても過言ではない。
そんな再生の時代の中で、迷える私たちにとって一筋の光となるような言葉の力を信じたいと願う著者。脱原発運動に関わり、行動する作家として声を上げ続けている、私の敬愛する女性落合恵子さんが珠玉の言葉を集めた一冊「自分を抱きしめてあげたい日に」(集英社新書)を読んだ。意外にも新書版での刊行は初めてだと言う。

・・・ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、言葉だ。・・・

詩人長田弘の「花を持って、会いにゆく」という詩の一節から始まるエッセイ。7年間に及ぶ自宅介護の末、お母さまを見送った恵子さん。心にぽっかりとあいた空洞を埋めるべく出会った絵本や小説、詩の中から特に心に残ったものを選んで、今度はそれを私たちの再生へのメッセージとなるよう一冊の本にまとめてくれた。
言葉は確かに力を持っているけれど、同時に言葉にはならない思いというものもある。だけどやはり私たちは言葉の中で生きているから、その時の心の状態にふっと寄りそってくれるような言葉に出会えたその瞬間に、心もふっと緩んでくる。
例えば自分が無力に思えたら…日々がちょっとに詰まったら・・・自分が弱く思えたら・・・そんな心の状態に合わせて処方箋のような形で言葉を選び紹介されている。
恵子さんの感性が私はとても好きなので、恵子さんの選ぶ言葉にもまた私は共感を覚える。
そこに共通するのは「Other Voices」・・・今までとは違う価値観という思い。たとえば子供、高齢者、障がい者・・・少数派の弱者たちの声は決してMain Voicesにはならない。でもだからこそ周辺に届きにくいOther Voicesを大事にしたいと恵子さんは声を上げ続ける。
先を歩く女性の一人として恵子さんの言葉に勇気をもらいながら、私もまた自分らしく自分の道を歩いていくことを再確認していく。
最後の言葉がとても印象的。
「非情で残酷な時代と社会を、わたしたちひとりひとりは生きている。それでもわたしはいま、信頼できるひとたちと、信頼に足る言葉たちと、あらゆる状況を越えて繋がっていこうと考えている。そうすることが、この時代と社会を拓く、もしそう呼ぶとするなら、『希望』への、細い、けれども確かな明日に繋がる小径だとわたしは信じている」・・・まさに同感。
久しぶりに何もない夜があった。恵子さんの本を読みながら、一人、静かな時間を楽しんだ。多くの人と出会い話し、仕事をすればするほど、私にはそんな一人の時間がとても必要になってくる。それは自分に還る時間であり、自分を内観する時間でもある。そんな時間があるからこそ、次の日もまた元気で過ごせるのだと思う。
台風の動きが心配だけど、明日は中秋の名月。古民家で行う2度目の満月瞑想会の日だ。多くの方からお申し込みいただき、今回も定員いっぱいに。たとえ空に月が見えない夜だったとしても、心の中の月を静かに眺めながら、来て下さった方たちと共にいい時間を過ごせたらと思う。
Dscf8069


| | Comments (2) | TrackBack (0)

March 24, 2012

脱原発社会を創る30人の提言

香取市の筍から放射性セシウムが検出され出荷自粛が要請されたと数日前の新聞に載っていた。春と言えば筍。これからが旬で食卓を多いに楽しませてくれる筍が出荷できなくなった。
130ベクレルという数値は、4月から適用される新基準(1Kg当たり100ベクレル)を超えている。この時期の筍は腐葉土の中で一雨ごとにぐんぐんと伸び、地表に頭を出す。地中から吸収するものも多いので、昨年よりも今年、そして来年にはどうなってしまうのか不安だ。
「脱原発社会を創る30人の提言」を読んだ。食や農、環境、アジア、自治などをテーマにした質の高いメッセージを世に送り出している出版社コモンズ代表でありジャーナリストである大江正章氏が脱原発に向けて国民的議論になるような叩き台としての本を作ろうと呼びかけてできた本だ。日本の各界で活躍している時代の先駆者50人に提言を依頼し、そのうちの30人が寄稿。50日という突貫で制作されたという。
これから脱原発社会をどのようにして作っていくのか、感情論ではなく具体的に何が必要か、それぞれの執筆者がそれぞれの立場から提言しておりとても参考になる。作家の池澤夏樹やミュージシャンの坂本龍一、社会学者の上野千鶴子、ジャーナリストの池上彰などの著名人の他、京都大学の小出裕章さんや原子炉格納容器の設計者である後藤政志さんなどの提言からは原子力の技術的な問題がわかりやすく書かれていたり、自然エネルギー政策に関しては未来バンクの田中優さんなどがデータを元に電気消費量を減らせることを実証。
どの執筆者も私自身が個人的にも関心のある人ばかりなので、それぞれの提言をとても興味深く読むことができた。
おりしも関西電力大飯原発3・4号機が再稼働に向けて検討を始めている。橋下大阪市長は「総選挙で決着をつけたらいい」と言っているけれど、本当にこんな状況の中でどうして再稼働できると考えられるのだろう(橋下市長の意見を全面的にいいと思っているわけではないけれど脱原発のことに関しては賛同できる)。
関西電力の筆頭株主である大阪市。大阪府と大阪市で作るエネルギー戦略会議は株主総会で原発の全廃を提案するという。こういう動きが全国に広がっていけば、本当に原発を止めることができるかもしれない。
コモンズとは知のコモンズ(=共有地)、それは「共有知」であり、「多くの仲間が集い、利益優先でない社会を共に目指す共有地」となるべく議論するための本を送りだしたいという思いから設立された出版社。
脱原発というのは単にシステムだけの問題ではない。オルタナティブな生き方暮らし方をするための選択だと思っている。21世紀を経済成長だけの時代にするのではなく、命を育み守り育てていく農的な時代へと変えていくことが大切なのではないかな。
「メルトダウン後の世界を結い直す」きっかけとなる一冊。ぜひお読みになって下さいね。
Dscf7840

| | Comments (2) | TrackBack (0)

February 10, 2012

奇跡を呼ぶ100万回の祈り

筑波大学名誉教授で生命科学、遺伝子研究者として世界的な評価を受けている村上和雄氏が東日本大震災後の日本の復興のために書き下ろした一冊。著者の印税は全額被災者の方たちに寄付されるという。
2011年3月11日、私たちは世界の歴史上に残る大惨事を経験した。その後の津波、余震、原発事故から日本は先の見えない大きな不安に包まれた。そんな中で世界各国から「Pray for Japan」~日本のために祈ろう~と国境を越えた温かい祈りの言葉や実質的な支援が今もなお寄せられている。
今回の震災を通して私たち日本人は目に見えるものは失われても、目に見えないものは残っていくということに気付かされた。それは「日本人が本来持っていた豊かな精神性の灯りに再びスィッチが入れられた」ことで見え始めたものではないかと村上氏は述べている。
古来から日本人は自然界のあらゆる命を育むおてんとうさまを敬い、森羅万象に思いをはせながら、水木風土のあらゆるものに神が宿るという八百万神を信仰してきた。見えないものに対する畏敬の念を忘れず、おかげさまの気持ちと共に生きてきた民族だ。
ところが産業や科学の発展と共に経済効率だけが最優先され、目に見えるものばかりに重きを置くようになってしまった。今回の地震はそんな私たちへの自然界からの警鐘でもある。折しも村上氏は2010年に脳梗塞で倒れ病床につくという経験をし、その直後の大震災。どんなに科学が発展したとしても命の元になる細胞一つさえ作り出すことができないという人間の無力さと共に改めて命の尊さを感じたと言う。
「祈り」の語源である「い」は「命 生命力」、「のり」は「祝詞 詔」。だから祈りとは「生宣り」(いのり)。つまり「命の宣言」ということ。「自分が与えられた命に対して、これだけのことをしますと具体的に宣言することで、祈りが自らサムシンググレートを呼び起こし、願いを実現させるように自己の内面からいろいろな力を出させるようにするのではないか」という仮説にはとても納得できる。
世界中から寄せられた祈りという復興へのエネルギーに支えられながら、日本は少しずつ前に歩き始めている。祈りのある行動こそが奇跡を起こすことにつながっていく。真剣な祈りに感応して、命の働きを高めるためにスィッチがオンになる遺伝子があるのではないか、そしてその遺伝子は五感を研ぎ澄ませることで、強く働かせることができるのではないかと説く。
村上和雄氏は科学者でありながら、目に見えないの存在のことをきちんと理解している人だ。氏の本を読むたびに、命の仕組みを研究する人として決して奢ることのないように、それは神さまが氏にお与えになった感性なのではないかと思う。そしてその感性に私は深く共感する。
今回の惨事が余地できなかったことに対して一方で科学への不信感も生まれている。そのことに対して氏も科学者として責任の重大性を自覚し、自然と調和する技術の開発にも力を注いでいきたいと語る。
奇跡を呼ぶ100万回の祈り(ソフトバンククリエイティブ)の巻末の言葉は氏が総合司会を務めたという広島世界国際会議の宣言文。「私たちは他者の苦しみ、痛みに無関心であるのはやめましょう。世界で起こる問題の原因は私たちの中にあります。そしてその解決もまた私たち自身から始まるのです。世界を変えるのに必要な力はあなた自身にあるのです」。
Dscf7802_2


| | Comments (2) | TrackBack (0)

August 16, 2011

現代版モーゼの十戒

友達から進められて面白い本を読んだ。「山は市場原理主義と闘っている」(安田喜憲著 東洋経済新聞社)。タイトルだけ見たら自分では決して手に取らない類の本だ。サブタイトルは「森を守る文明と壊す文明との対立」。ここで少しだけページを開いてみようと思った。
でも意外や意外、読み進めていくといつも自分でも考えていることが、明確な論理でまとめられており夢中になって読んでしまった。
国土を山河が貫き海に囲まれた美しい日本列島は縄文の時代から大地に祈りを捧げてきた。太陽を山を川を・・・この地球に生きとし生けるものの命に対して畏敬の念を抱いていた。さらに自然と向き合い、自然(山)の中で修業を行い、心の平安と悟りの境地を求めていったのが日本人の宗教観のルーツだ。
最澄や空海が比叡山高野山で修行をし、神仏習合の密教の世界を誕生させ、その後、法然、道元、日蓮、親鸞など開祖たちも皆、山に入った。それだけ山(自然)への祈りが宗教の原点になっているということだろう。天と地のかけ橋となる山や木は聖なるものとみなされ、それをあがめ畏れ敬うことから山岳信仰が発展していった。
それに対し、砂漠の民は山々よりも夜空に輝く月や星をあがめ一神教というものを創造していった。つまり風土は宗教の基礎となっていくのだ。
また東洋の稲作漁撈民と西洋の畑作牧畜民を、その食文化の違いから、「美と慈悲の文明」と「力と闘争の文明」とに分別し、何をどのように食べてきたかということが民族性をも育てていくと語っている。
その一例として脳内にある神経伝達物質であるセロトニンの働きが紹介されている。
セロトニンは安らぎや弛緩、受動的な心、優しさや和らぎと深く関係しているのだが、必須脂肪酸を多く含む魚をタンパク源としている稲作漁撈民は、セロトニンが活発に働き、自ずと慈悲の心が育まれる。
これに対し、肉食はセロトニン受容体の細胞膜が飽和脂肪酸によって硬くなり、セロトニンが活発に働くことができなくなる。それが能動的、攻撃的になり、しいては「力と闘争の文明」を構築する原因となっていったのではないかと説く。
またモーゼ十戒も取り上げている。神と人間との関係、人間と人間の関係を、幸福と繁栄に導くための戒めだ。でも周囲に森がなかった砂漠の宗教には自然と人間との関係についての戒めが欠けているのだ。そこにキリスト教やユダヤ教の大きな限界があるのではないかと安田氏は語っている。
他の宗教を一切認めない一神教の人々が自分たち以外の人々を力で搾取していく。結論として世界を動かす経済システムである市場原理主義から、自然を崇拝し、共存共生を基本にした経済システムへと転換するためには、人類が山に祈る心を取り戻す必要があるとまとめられている。
自然とどう向き合うかということは、その人がどう生きるかということにつながっていくのだなと改めて思った。さらにはその国の国民性までが自然状況によって変わってくる。
でも縄文時代から生活の中で祈ることを忘れなかった私たちの祖先。山に祈る心を大切にしながら、世界を転換させていくのは日本人からだと私は思う。
Dsc09678

「現代版 モーゼの十戒」(安田喜憲「蛇と十字架」より)
①あなたは自然のなかにも神を見つけなくてはならない
②あなたは自分のためにのみ人格神を刻んだ像をつくってはならない
③あなたは自然にいつも呼びかけなければならない
④自らが安息日をとるように、自然にも安息日を与えなければならない
⑤あなたは父と母を敬うように自然を敬わなければならない
⑥あなたは自然の生き物をむやみに殺してはならない
⑦あなたは自然も家族の一員として大切に愛さなければならない
⑧あなたは自然の豊かさをふみにじってはならない
⑨あなたは自然に対して嘘をついてはならない
⑩あなたは自然を不必要に貪ってはならない

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 14, 2011

台湾式菜食レシピ

満月の一日手前だけれど、月がとってもキレイだ。暗い座敷の中にも月灯りが射し込んでくる。今日の昼間はかなり暑かったけれど、夜は久しぶりにちょっと涼しくなってきた。茶の間に座ってミーを膝に乗せながら月を眺めていたらひんやりとした風がとても気持ちよかった。トラは月が明るい夜は嬉しいのか?一人で庭を走り回っている。
成田市立図書館の貸出冊数は一人10冊まで。もちろん毎回めいっぱい借りてくるのだが、最近はそのうちの半分は料理本だ。元々本が大好きだし、料理本は仕事の参考にもなるので、すぐ買ってしまうのだが、とにかく蔵書が多いので、これからはなるべく買わないでおこうと思っている。
それで料理の方を借りてきては美味しそうなページをコピーするのだが、そのファイルだけでもかなりの冊数になってしまった。
台湾は料理が美味しいことで有名だ。私は台湾には行ったことがないけれど、台湾料理の好きな店があって、そこにはよく行っていた。日本人好みでとても食べやすい味だった。意外に思われるかもしれないが、実は台湾はインドに次いで世界第2位のベジタリアン大国。菜食のことを「素食」(スーシー)と呼ぶが「質素な食事」と言う意味とは違うらしい。レストランの入り口に「卍」のマークが付いていれば素食の店という意味で、至る所にあると言う。
台湾式菜食レシピ」では「医食同源」を基本にした菜食レストラン「健福」の美味しいレシピが紹介されている。大豆たんぱくやグルテン、ソイハム、湯葉などのオリジナル製品を使い、動物性のものは一切使われていない。
しかもにんにくやネギ、ニラ、ラッキョウなど匂いのするものも使わずに作った中華なので、もしかしてかなり淡白な味なんじゃないかなと勝手に思ってしまった。でも写真で見る限りではとっても美味しそう!。昔から台湾には「もどき料理」が多く、味もしっかりと付いているので、お店ではノンベジの人からも喜ばれているそうだ。今度、「健福」のランチを食べに行かなくちゃ・・・。お値段も手頃みたいだ。
取り上げられていたメニューは、酢豚とか餃子とかチンジャオロースーと言った一般的な中華料理。それをいかにベジタリアン向けに美味しく調理できるか。肉や魚を大豆たんぱくに差し替えるなど、素材の使い方が参考になって面白かった。
Dscf7507

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 11, 2011

麹の本2冊

この二日間はどこにも出かけず夏野菜の植え付けをしようと思っていたのだが、今日はあいにくの雨。しかも昨日との温度差たっぷりの肌寒い一日。室内の片づけをしながら時々トラとミーと遊びつつ、どこにも出かけず、一日中、本を読んでいた。
今、私が最も関心のある塩麹について書かれている麹のレシピ本2冊だ。「麹のレシピ」(池田書店)と「塩麹と甘酒のおいしいレシピ」(農文協)。残念ながらまだ自分で塩麹の料理を実践していないので、その味については何とも書きようがないのだが、古来から日本人が親しんできた麹にはとても興味がある。
味噌、醤油、甘酒など、麹を使った発酵食品は体にいいことずくめ。麹をもっと積極的に食べられるよう、操業300余年の麹屋「糀屋本店」の女将浅利妙峰さんは塩麹を作って、万能調味料のように使うことを提唱している。
麹には食材をより味わい深いものへと変化させていく不思議な力がある。その力を最大限、料理に生かして、よりヘルシーで美味しいものが手軽に食べられたなら、誰だって麹のファンになってしまいそう。発酵こそが21世紀の健康を考えるキーワードになると私は思っているので、もっともっと身近で楽しく簡単に発酵食品が取り入れられる方法を探っていきたい。
その塩麹とは塩と水と麹を混ぜ合わせ、毎日かき混ぜながら常温で1週間ほど寝かせたら出来上がる。冷蔵庫で保存しながら、例えば生野菜にまぶして漬物にしたり、炒め物の隠し味にしたり、魚や肉を焼く時に使ったりするそうだ。発酵調味料を仕込む前には形があるけれど、いざ食べる時になると麹の形は全く残っていないので、実際に麹を間近で見る機会は案外少ない。でもよくよく考えると麹は昔っから縁の下の力持ちの役目をずっと担ってきてくれたんだなと思う。
これからは麹がもっと表に出て行けるよう?まずは塩麹に変身させて、いろんな料理を試してみようと思う。麹に触れるのは一年に一度、味噌造りの時だけ・・・なんてことがないように、塩、味噌、醤油、梅酢と並んで塩麹を厨房の主要調味料の一つにしていきたい。塩麹という私にとっては新しい素材とこれから末永くうま~くお付き合いしていくんだなと思ったら、本を読みながらとってもわくわくしてきた。
Dsc09439


| | Comments (0) | TrackBack (0)